学長ノート

卒業生へのメッセージ(2026年9月 学位授与式)

2026/09/18

ご来賓の皆様、教職員の皆様、遠方からお越しくださったご家族の皆様、そして何よりも、2026年9月に卒業・修了を迎えた皆さん。

おめでとうございます。

皆さんは、1人でこの日にたどり着いたのではありません。先生方、同級生、先輩や後輩、この大学の職員、そしてご家族——この会場にいらっしゃる方も、遠い国から不便な時間に見守ってくださっている方もいます——そのすべてが、皆さんが今ここにいることの一部です。ご家族・保証人の皆様、大切なお子さんを私たちに預けてくださり、ありがとうございました。APU全体を代表して、心よりお祝い申し上げます。

近年、私はここビーコンプラザの壇上から、そして大学内のミレニアムホールから、世界全体に関わる大きな話をしてきました。ヨーロッパと中東に戻ってきた戦争のこと。隣人を恐れることを人々に教えることによって力を得ていく各国の政治運動のこと。私は毎年、卒業していく皆さんに、その分断に橋を架ける存在であってほしい、進むべき方向を照らす灯台であってほしいと申し上げてきました。本気で申し上げてきましたし、今もそう思っています。

しかし今日の午後は、少し違うことをしたいと思います。とても小さなものごとについて——そして、なぜ最も小さなものが最も大きなものとつながっているのか、その理由をお話しします。

1 皆さんが歩み出す人生

皆さんがどこへ向かうのか、私にはおおよその見当がついています。北米やヨーロッパの大学院へ進む人。東京、シンガポール、ニューヨーク、バンコクの企業に入る人。故郷に戻って家業に加わる人、公務に就く人、そしてまだ進む道を見つけていない人。

皆さんはきっと成功するでしょう。すでに成功に向けて歩み始めています。私は皆さんの頑張りを見てきましたし、その頑張りがどういうものかも知っています。睡眠は4時間。本を読みながら、プラスチック容器から立ったまま食事を済ませる。友情もプロジェクトも、すべてが1枚のガラスの画面越しにおこなわれていく。

これをダメだと言っているのではありません。私も学生でした。東京大学、そしてUCLAで学びましたが、皆さんより賢くもなければ、きちんと睡眠を取っていたわけでもありません。若いうちは「超スピードで生きること」は悲劇ではありません。実際、仕事にはスピードが求められます。けれども私は皆さんのことを大切に思っています。だからこそ、これから皆さんが経験するであろうことについて話します。

皆さんの仕事は、ますます抽象のなかで営まれるものになっていきます。データやモデル、文書ファイル、AIの世界の中で日々を過ごすでしょう。部屋や席次を指定されずに、どこからでもオンライン会議に出るでしょう。一度も隣り合わせになったことのない人々のことについて意思決定を行うでしょう。こうした変化の多くは良いものであり、どれも避けられないものです。ですから、私は皆さんに、専門分野のデジタル・ツールを信用するなと言いたいわけではありません。

その上で、私が皆さんにお願いしたいのは、抽象化された日常の中で、別の大切なものを忘れないでほしいということです。

2 小さなこと

この夏、私は1冊の本を読み、それ以来ずっと考え続けています。イアン・ボゴストの『The Small Stuff(小さなこと——より満ち足りた人生を送るために)』です。この本では、彼が「脱物質化(dematerialization)」と呼ぶもの——つまり、感覚を通じて世界を経験することから、私たちがゆっくりと切り離されていくことが述べられています。

空港のトイレを思い浮かべてください。便器の水も、蛇口も、石けんも、手を乾かす温風も、どれも触れることなく働きます。そのどれ一つとして、皆さんの身体の関与を必要としません。これは既に生活の隅々にまで浸透しています。勝手に変速して目的地に到達する車。紙ではなくなった切符。誰とも話すことなく玄関まで届く食事。これをもたらしたのは科学技術だけではありません。効率化も、官僚主義も、経済や規制も、その一端を担いました。それらが合わさって、日常生活は、感じ取るものがほとんど残らないほどなめらかにされてしまったのです。

誤解のないように申し上げます。これは科学技術の否定ではありません。私たちの生活は全体として良くなりました。これはノスタルジアでもありません。今年3月、私はこの壇上で、マーク・カーニー首相の「ノスタルジアは戦略ではない」という言葉を引用しました。それは今も真実です。そして、生活をわざと不便にせよという話でもありません。皆さんに必要なのは、スマホを鍵つきの箱に入れるような「障害」ではありません。自分が「いま、これをしている」という実感です。目指すべきは困難ではなく、その瞬間に、自分がそこにいるという実感です。

私たちは結果を重視するあまり、何かを「する」経験そのものが大切であることを忘れてしまいました。例えば、ご飯を作ること。テーブルにならぶ夕食は「結果」です。鍋の中でタマネギが柔らかく茶色になっていく様子、炒めタマネギ独特の香り、まな板の上の野菜を刻むときに包丁が返してくる手応え——私たちが静かに削り落としてしまったのは、この部分です。

3 この場所が皆さんに与えたもの——気づかなかったかもしれないもの

皆さんは十文字原の丘を登ってきました。ここにいる全員が。九州の9月の暑さの中を、そして山から真っ直ぐ吹き下ろしてくる1月の風の中を。

皆さんは硫黄の匂いのする街で暮らしました。この街に来て2週目には、その匂いを気にしなくなったのではないでしょうか。私は確信しています。皆さんは気づかなくなったのではありません。それはどこかにしまわれていて、いつか、何年も先、遠い街で、何かの拍子にあまりに鮮やかに戻ってきて、皆さんはその場に立ち尽くすことになります。

皆さんは午前1時のAPハウスの台所に立っていたこともあるでしょう。3つの国から来た3人と、炊飯器を囲みながら。水の量をめぐる真剣な意見の対立。最初の1か月は奇妙に思えた食べ物が、これから一生恋しくなることもあるでしょう。プロジェクトが終わったあとに、疲れ果てながらも大声で盛り上がったご飯会にも行ったことでしょう。それが人生で最高の夜の1つだったかもしれない。しかも、誰もそれを「最も効率のよいやり方」でしようとしなかったはずです。

そして皆さんは別府に暮らしてきました。最適化できない営みの上に、まるごと1つの文明を築いた街に。

温泉は、速く済ませることができません。もし単に体を清潔にすることが目的なら、シャワーのほうが速いし安い。そしてこの街の歴史上、清潔になるためだけに温泉に入った人など1人もいないでしょう。人が温泉に行くのは、湯に体を沈めた瞬間の、あの痛いような熱さを味わうためです。それを肌で感じ、心臓が速くなるのを感じるためです。外に出た瞬間の、涼しい空気を感じるためです。そのあとのぼーっとした感覚——なぜかアイスクリームが無性に欲しくなる、あの状態のためです。結果は取るに足りません。温泉は、入るという経験こそが、すべてなのです。

皆さんは、世界が急いで忘れようとしている何かを、いまだに大事にしている場所で暮らしてきました。皆さんの多くは、そのことに気づいていなかったと思います。今、気づきましたね。

4 なぜ大学の学長が、温泉の話をしているのか

ここからが大事なところです。

残酷な行為は、人を抽象化することによって起きる。

私がこれまで研究してきた差別と排斥の運動は——私は学者としての生涯を、それらの研究に費やしてきましたが——すべての差別や排斥は、人間を一般化・抽象化することから始まります。顔があり、料理をして、それぞれ固有の恐れを抱いた本物の人々が、1つのカテゴリーに変換される。人口流入。統計上の数字。財政負担。「あいつら」。人間がひとたび抽象的なものへと変換されてしまえば、その人たちに対して、どんな残酷なことをしても許されるようになり、善悪感を持った普通の人々でさえ黙認します。抽象的なカテゴリーの重さは、感じることができないからです。

個別具体的な事柄に注意を向けることは、このような抽象化とは逆の行為です。注意を向けることは、目の前で起きていることを大切にすることです。この温泉から立ちのぼる湯気。この一杯のご飯。今、目の前にいるこの人の笑顔、あるいはしかめ面。予想していなかった何かを、私に告げている表情。

小さなことに気づく力と、見知らぬ他者を尊重する力は、2つの別々の能力ではありません。それは1つの能力が、2つの方向を向いているだけです。

この力こそ、誰からも教えられることなく、このキャンパスで皆さんが培ってきたものです。国際相互理解の理論ではありません。注意を向けるという「実践」です。日々の、身体的で、ときに居心地の悪い実践。炊飯器を囲み、グループワークに取り組み、仲直りに1週間かかった誤解の上に積み重ねられてきた実践です。

APUの開学理念の一つに「自由・平和・ヒューマニティ」があります。「ヒューマニティ」が抽象的な言葉ではないことに、気づいてほしいのです。これは身体をもつ人間を表す言葉です。寒さを感じ、空腹を感じ、疲れ、傷つく人々についての言葉です。目の前の具体的な事柄に注意を向ける習慣を失った人は、いつか、会ったこともない人々についての残酷な決定に、はるかに簡単に同意してしまうでしょう。

だから私は、温泉の話をしているのです。

5 3つのお願い

私はこの式典で、卒業していく皆さんに、必ず何かをお願いしてきました。今年は3つお願いします。どれも小さなことです。それが重要な点です。ただ、その前に1つ、実際的なことを申し上げます。はっきり申し上げるのが、学長である私の責任だからです。

仕事の結果を出すために、睡眠や食事、友人との時間を犠牲にするよう求められることが、一度や二度ではないでしょう。時には、その代償を払う価値がある場合もあります。しかし、その決断を下すのは自分自身であり、その代償が何であるかをしっかりと見極めるようにしてください。睡眠は非効率ではありません。誰かと一緒に食事をすることは非効率ではありません。散歩は非効率ではありません。そして、いつかチームを率いることになったとき——皆さんの多くはそうなるでしょうが——他の人々の1日がどれほど充実したものになるかについて、皆さんには真の力があるということを忘れないでください。その立場にある人のほとんどは、その力を決して使いません。人を幸せにできるその力を手にする前に、今、この場において、伝えておきます。忘れないでください、皆さんの力を。

では、3つのお願いです。

1つ目に、機械が代わりにやってくれない、手を使ってゆっくりやることを、生活の中に1つ持ち続けてください。料理する。上手でなくても楽器を演奏する。何かを育てる。受け取ったら驚くような相手に紙の手紙を書く。何をするかは重要ではありません。重要なのは、それが皆さん自身のもので、身体を使うもので、そして決して効率化できないものであることです。

2つ目に、時々は、1つのイベントとして、誰かとテーブルを囲んで、食事をしてください。コンピュータの画面を見つめながら食べるカップ麺は食事ではありません。単なる燃料補給ですし、安藤百福博士にも申し訳ないことです。もちろん必要なときは補給してください。しかし、人生のすべてが「燃料補給」になってしまわないように。皆さんは、本当の食事の仕方をすでに知っています。ここで学んだからです。本当の食事を簡単に捨て去らないでください。

3つ目に——これが難しいお願いです——誰かが皆さんにとってカテゴリーになったとき、その人に会いに行ってください。仕事の中で誰かが人員数になったとき、案件番号になったとき、市場セグメントになったとき、「あいつら」になったとき、席を立って、その人がいる場所へ行ってください。そして、座って問いを1つ投げ、答えを最後まで聞いてください。これは私がお願いする中で最も高くつくことであり、そして最も大切なことです。

6 結びに

このあとこのホールを出るとき、すぐにスマートフォンに手を伸ばさないでください。

外に出てください。そして、2分間、立ち止まってください。別府の街なかから、街を囲む山の斜面を見上げてください。そして、私たちの誰よりもはるかに長いあいだこの地から立ちのぼり続けてきた、あちこちの湯けむりを見てください。9月の温かい空気を感じてください。あの硫黄の匂いを、一度だけ吸い込んでください。

別府の硫黄の匂いは、どのサーバーにも保存されていません。アップロードすることも、要約することも、転送することも、遠隔で体験することもできません。それは、皆さんが立っているその場所にだけ、立っているその瞬間にだけ、存在します。

15年後、ここから遠く離れた大きな街で疲れているとき、そして今日の午後に私が話したことのほとんどを忘れてしまったとき——その匂いが戻ってきてほしいと、私は願っています。そしてその匂いとともに、十文字原の丘にいた頃の皆さんが誰であったか、皆さんが何に気づくことのできる人間であったかを、思い起こしてほしいのです。

皆さんは今、人類が築き上げた最も野心的な抽象概念の1つ——100を越す国・地域の人々が、自ら望んで共に暮らすことを選んだ国際大学——を後にしようとしています。そして、皆さんがそこから持ち帰る最も価値あるものは、「注意を向ける習慣」という、ごくありふれたものなのかもしれません。

橋になってください。灯台になってください。そしてその途中で、小さなことに気づいてください。

2026年9月卒業・修了生の皆さん、おめでとうございます。

どうか、よい人生を。よく食べて。顔を上げて。


立命館アジア太平洋大学
学長 米山 裕
2026年9月18日



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