
音楽を通じて、別府の魅力を世界に届けたい:
がむしゃらに走り抜けた学生時代から、街と共にある音楽バー経営へ
深川 謙蔵 KENZO, FUKAGAWA
リスニングバー「TANNEL」創業者兼オーナー
Introduction
がむしゃらな2年と、自分の特性を見極めた休学・バー経営
現在は別府で活動中の深川さんだが、APU入学時はそんな未来を見据えていたわけではなかった。何者でもない自分に焦りを感じ、あらゆることにチャレンジしたと語る。
入学してから最初の2年くらいは、とにかくAPUの中でチャンスがあれば何でもやる、というつもりで突っ走ってました。当時は、高校で仲が良かった友達がほとんど東京に進学したこともあって、それがちょっと僕の中でコンプレックスだったんですね。「もう僕は人生に負けたんじゃないか」ぐらいの感覚でした(笑)。でもそれをどうやったら取り返せるかって考えたら、もう大学で頑張るしかないなって。今思えば若者らしい発想ですが「自分は崖っぷちだ。APUで一発逆転しなくては」みたいな気持ちがありました。
サークルは、イベント系のものにいくつか入ったり、世界の貧困地域の住居問題に取り組むHABITAT APUにも所属したりしてました。並行して、APUの学生寮「APハウス」で寮長組織(RA)のリーダー役も務めていました。アルバイトもイベントの設営や運営などをやっていて、「イベントって面白いな。イベンターになりたいな」と思っていたこともあります。僕が色々やっているのを見ていた親からは「単位だけはしっかりとれよ」と言われていたので、勉強もおろそかにしないようにしていました。
ただ、2回生の終わり頃に「もっと外の世界を知りたい」と思うようになりました。お山の大将ではないですが、サークルの代表を務め、APハウスのリーダーも任せてもらう中で、どこか狭い世界の中だけの評価を気にしながら生きているような感覚が強くなっていたんです。APUの中では「すごいね!」なんて言われるんですが、「こんな環境はここだけだよな」と。このまま勘違いしたまま社会に出たら絶対にまずいことになるのではないか、とさえ思っていました。
それで、一度この環境から離れようと1年半の休学を決めました。はじめの1年は、実家のある佐賀に戻って、雑貨屋やイタリアンレストラン、ホテルなど、3つのバイトを同時に経験しながらお金を貯めつつ、「自分に合う仕事とは何か?」を確かめました。
休学の2年目はマルタ共和国に留学しました。当時は日本人が少なかったんです。でも、マルタで語学学校に通い始めて、すぐに「これはAPUでもできることだな」と気づいてしまいました(笑)。
そこで、マルタにあった寿司レストランに「(ビザの問題がない)無給でいいので働かせてください」と履歴書を持参して、働き始めました。それからは語学学校とレストランの往復生活です。お客さんから日本の文化や食について質問攻めにあったり、外国人スタッフと一緒にホールを回したり、マルタならではの経験ができました。
休学中のバイトとマルタ留学で「ある程度想像できる未来よりも、どうなるのかわからない未来の方がワクワクするな」とか「指示されるより、自分で考えて動くほう楽しいな」という自分の特性に気づくことができました。

休学中も、「自分が面白がれることは何か」を探しながら動き続けていた深川さん。復学後には、学生の身でありながら、本格的なバー経営をすることになる。
APUに復学後は、学内ではなく別府の町で遊ぶようになりました。就職活動も終わり、当時よく通っていた別府市内のイタリアンバルのオーナーに報告にいったら「明日からここで働かないか?」って言われて、翌日から働き始めました。その時は、単位もほぼ取り終わっていたので、時間の許す限り、毎日働きました。
ある日、オーナーから「使っていないバーがあるから、やってみる?」と提案をもらい、バー経営にチャレンジすることになりました。本当に「0からのバー経営」です。給料は、時給ではなく、完全歩合制。崖っぷちのような形でスタートしたこともあり、「どうすれば売上が上がるのか」「どうやったらお客さんが来てくれるか」をひたすら考えていました。卒業するまでの8ヶ月間ではありましたが、この経験が、今の仕事に繋がっています。
東京での就職と独立への準備
APU卒業後は、デジタルマーケティング企業・オプトホールディングに新卒入社。配属先は人事戦略部で、採用や企業ブランディングの企画を担う日々がスタートした。
東京での生活は、仕事も遊びも楽しかったです。とにかく「めちゃくちゃ働きたい」と思って会社に入って、その通りに平日は全力で働いて、仕事終わりや週末はクラブや音楽イベントで遊ぶ、みたいなサイクルで過ごしていました。
仕事は新卒採用が主で、毎日4-5人の大学生と面談したり、会社説明会を行なったりしていました。そして、当時はまだ新しかった「採用ブランディング」と言われる、会社のブランディングと採用を合わせて企画する仕事を会社に提案してやらせてもらっていました。自分や自社の視点だけでなく、世の中の流れやニーズを見極めて企画を作った経験から、多くのことを学びました。どの仕事も楽しくて、とても充実していたのですが、会社員という働き方が、自分には合っていないのかもしれないと感じていたんです。大きな仕事を任せてもらうには、組織で定められた一定の評価基準に沿った成長をする必要がありますよね。今考えると、とてもわがままな考えだったと思いますが、その基準の中で成長していくことに、ワクワクしなかったんですね。仕事そのものには社会的な意義もありましたし、人事採用の世界で新しいことを考える面白さはありました。それでも、「会社員」としてのキャリアに、ワクワクできなかった。
それで、2年目の終わりぐらいに別府に「戻る」ことを決めて、それからは、数ヶ月ごとに別府に通っていました。学生時代にお世話になったイタリアンバルのオーナーや、お世話になっていたホテル経営者の方と話すたびに、「お前、いつ別府に帰ってくるんだ」と言われて。結局、東京で4年ほど働き、2019年の3月に移住しました。
コロナ禍で生まれた新たなつながり
2019年に別府へ戻って「the HELL」を開業。その後、コロナが直撃した。
音楽をテーマとするお店をやろうと思ったのは、数ある別府のバーの中でも「良質な音質で、じっくり音楽を楽しめる場所がないな」と思ったのがきっかけです。音楽はずっと好きでしたが、まさか自分が音楽をテーマにしたお店をやることになるなんて、学生時代の自分には想像もつかなかったと思います。2019年にお店をオープンして、加えて前職で培ったスキルを活かして採用支援の仕事もしていたので、そこそこ順調に事業をスタートさせることができましたが、2020年に、新型コロナによる未曾有の事態に巻き込まれていきました。
ご存知の通り、この時期の飲食店はとても大変でした。しかし、「この強制的に動きが止まる時に、動こう。今動くことが、後々にも影響していくはず」と考えて動き続けました。いろいろと挑戦しましたが、その時に始めたことの一つが音楽ライブイベントの企画です。
最初のライブは、山田別荘という老舗旅館で開催しました。30名ほどのお客さんでしたが、評判もよく、周りの人たちも面白いと言ってくれて。その後は、大分県内の、老舗の映画館や森の中のカフェなど、普段は音楽ライブをやらないような場所でイベントを実施しました。
元々は自分のお店をどうするかしか考えていなかったし、目の前のことで精一杯でした。でも、コロナ禍で大変そうにしている街の人たちを見ていて、自分に何ができるかを考えて実行し、結果として街の人たちと一緒に音楽イベントをつくれるようになっていった。今では、何かをやろうと思ったときに、すぐに街の人たちの顔が思い浮かびますからね。
音楽をきっかけに、別府の魅力を知ってもらいたい
深川さんが今、最も大切にしているのは、別府に住む人も、旅で訪れる人も、「音楽を通じてこの街の新しい魅力を発見してほしい」という想いだ。
別府がとても良いなと思うのは、何かを仕掛けようと思うと、協力してくれる人が自然と集まってくるところです。別府のサイズ感も、人と接する距離感もちょうど良い。旅人の街だからでしょうか。温泉だけでなく、人や文化も、心をほぐしてくれる魅力があるんです。
昨年(2024年)が2回目となった音楽フェス「いい湯だな!」は、「おんせん都市型音楽祭」と呼んでいるのですが、大きな野外ライブとかではなく、街の中の映画館やホテルのロビー、ライブハウスなどを会場にして、お客さんに街中を回遊しながら音楽や飲食、そして温泉を楽しんでいただくイベントです。別府ならではの温泉街らしさを生かした「まちめぐり」が楽しんでいただいています。
今はまだ2日間のプログラムで、来訪者も千人程度の規模ですが、これをいずれは1週間くらいのイベントに拡張して、開催期間中に、数万人が来るような大きな「お祭り」に育てていきたいと思っています。

コロナがあったことで、街の人たちとの結びつきが深まって、今は「the HELL」と「TANNEL」の日常的な営業から、年に1度の音楽フェスの開催まで、一つの流れになってきています。
やっぱり音楽ってすごいんです。たとえば、うちのバーで宇多田ヒカルの『First Love』をレコードでかけたときなんかは、どんなにみんながワイワイ騒いでいても、必ず全員がふっと黙って聞き入っちゃうんです。そこからNetflixのドラマの話や昔の思い出話を語り始めたりして…。そういう「音楽が場をひとつにする瞬間」を、この街で何度も目にして、ほんとうに音楽は言葉や国籍を超える「共通言語」なんだなって思います。「音楽を通じて別府や大分の魅力を県外や国外に伝えていく」ことが僕のこの街の中での立ち位置、与えられた役割なんだろうな、と思っています。
別府には温泉があって、元々旅人を受け入れてきた土地で、APUに通う若い世代もいて、多様性もある。そういう街の魅力と音楽が掛け合わさることで、世界中の人たちが音楽を楽しみに別府に集まってくる文化をつくっていけるはずだ、と本気で信じています。