目 次

   愛新覚羅烏拉熙春の契丹文字と遼史研究

   契丹大小字墓誌

   契丹文字・遼史研究の新高峰――『新出契丹史料の研究』
   
   金光平先生の契丹大小字に対する論断

   契丹大字の性格



  契丹文字・遼史研究の新高峰──
         『新出契丹史料の研究』

             愛新覚羅 烏拉煕春・吉本 道雅 著

 本書は、平成24年度日本学術振興会成果公開促進費学術図書による出版であり、科研費研究課題「『遼史』の再構築契丹文墓誌を主資料として」研究成果報告の第一部として、『遼史』にもっぱら依存した従来の研究の限界を超え、『契丹文墓誌より見た遼史』(松香堂、2006年)出版以降出土の契丹文墓誌と漢文墓誌を基礎として、『遼史』の全面的な校勘整理に対する堅実な基盤を作り上げることを刊行の目的とする。契丹文史料を全面的に活用した契丹(遼)史の再構築は、前人未踏の領域を開拓するものとして、極めて大きな意義をもつ。従来の契丹(遼)史研究は、14世紀に編纂された『遼史』にもっぱら依存するものであった。『遼史』編纂の際には耶律儼・陳大任の著作が参照されたが、『遼史』を見る限り、それらはすでに粗略を免れないものであった。元朝史官は史料の不足に加えて、遼代に対する理解も乏しかったため、『遼史』の分量は『宋史』の十分の一にも及ばず、錯誤に満ちたものとなった。契丹(遼)史研究は、『遼史』に依存する限り、全面的な展開は困難である。一方、契丹文墓誌はモンゴル史研究における『元朝秘史』と同様に『遼史』には見られない契丹人自身の歴史の真相を具え、漢文墓誌にも往々にして『遼史』に見えない史実が記述されている。これらによって『遼史』の全面的な校勘整理に対する堅実な基盤を獲得しうる。本書で扱った新出の契丹文墓誌のうち、三件は国舅夷離畢帳抜里氏・一件は孟父房遙輦氏・三件は横帳耶律氏に関わり、漢文墓誌のうち、七件は国舅夷離畢帳抜里氏・一件は審密に数えられる楮特氏・一件は奚王族の迭剌氏に関わる。遼代史研究において、皇族・后族の実態解明は最も緊要の課題だが、とりわけ孟父房遙輦氏・国舅夷離畢帳は、新出契丹文墓誌の解読によって、初めてその実態が明らかになった。このようにして獲得された契丹人に関する豊富な新知見は、契丹(遼)史のみならず、広く東北アジア・中国を対象とする歴史学的研究に大きく裨益するものとなろう。
 上述の如く、契丹文史料を運用しえない今日一般の契丹史研究では、『遼史』がなお中心的な資料の位置を占めている。しかしながら、元人が倉卒に編纂した『遼史』の錯誤・遺漏は夥しく、中華書局本(1974)に附せられた校勘記ももとより契丹文史料を利用したものではなく、基本的には『遼史』内部あるいは、南宋~元代に編纂された『契丹國志』やその材料となった五代・北宋時代の中国人の断片的な記述、まれに漢文墓誌を根拠とした、正に校勘の域を出ないのであって、もはや時代遅れの観を免れ得ない。契丹文史料の解読を運用すれば、契丹史の一般的理解において無批判に受容され、重要な前提となっていた『遼史』の記述に深刻な錯誤や遺漏があることを知る。代表的なものを例示しておこう。第一に、建国前の遙輦氏及びその後裔に関する記述は『遼史』では極めて簡略だが、新出契丹文墓誌には、「遙輦世家」を立てうるほど豊富な資料がある。第二に、皇子表・公主表・皇族表・外戚表については、全面的な再構築が可能である程度に錯誤が甚だしい。中華書局本の校勘記は、本紀・列伝の記述を根拠として各表における誤脱・重複・世代の混乱などの錯誤をすでに数箇所指摘しているが、墓誌の記述と照らし合わせれば、訂正や補充すべき箇所は数倍に増え、校勘記にさえ少なからぬ錯誤があることが確認される。第三に、遼朝の横帳・国舅帳は遼一代を通じて独自の変遷をたどっているが、その過程は『遼史』には窺いえない。百官志・営衛志の説明は異なった時代の事象を混淆しており、その一方で、契丹文墓誌には天祚年間に至っても見出しえないような、意味不明の名称変更を記している。本書は『遼史』の局限を超える契丹人の歴史的実像を復元するための研究基盤を提供する。言語学と歴史学、契丹文字資料と漢文資料の分断状況を克服し、超域的史学研究の方法論を構築し、21世紀に相応しい歴史研究の新機軸が定礎されよう。
 本書の内容は以下の如くである。
 上編〈遼史世表疏証〉:『遼史』世表は、遼朝建国以前の契丹に関する包括的な記述である。もとより全面的な信憑性が認められてきたわけではないが、包括的であることの便利さから、研究の基本的な出発点となってきた。遼朝建国以前の契丹については、中国側の記述として歴代正史の契丹伝などがある一方で、契丹人自身の伝承を反映したとおぼしき記述が五代以降の中国文献や『遼史』の各所に散見する。世表は、耶律儼・陳大任の遼史を参照しつつ、往々にして矛盾するこれら二系統の材料の整合を試みているが、編纂者の推論をそのまま載せる部分があるように、その整合は完成していない。こうした次第で、世表は、中国系資料・契丹系資料および編纂者の解釈が複合した記述となる。同様の記述は、営衛志の一部など『遼史』の各所に散見する。本編は、これらにも言及しつつ、世表の原資料および編纂の問題を包括的に検討するものである。世表の原資料・編纂過程を解明することで、『遼史』史料批判の基本的な方向を提示し、あわせて、契丹文史料研究の成果を参照しつつ、遼朝成立以前の契丹史の再構築を試みる。
 下編〈孟父房遙輦氏と国舅夷離畢帳〉:遼朝の国制を考える上で、皇族・后族の実態の解明は最も重要な課題である。契丹文字解読の進展により、従来の研究がもっぱら依拠してきた『遼史』の記述の遺漏・錯誤が明らかになった。本編は最新出土の契丹文墓誌と漢文墓誌を全面的に活用することによって、皇族と国舅族のうち、とくに遙輦氏と国舅夷離畢帳に焦点を当て、その実態の解明を試みるものである。遼朝の国舅帳は、横帳と同様に、一朝で形成され固定不変であったものではない。両者は『遼史』など漢文史料によるだけではその全貌を窺い知れない推移を有するが、国舅帳は横帳よりさらに劇烈な変動の歴史を経ている。〈第一章〉では、遙輦可汗の後裔が契丹建国後における孟父房に所属した歴史的真相を発掘し、同時に最新の視角から遼朝皇族の構造並びにその発祥地とされる陶猥思迭剌部の形成過程を俯瞰し、『遼史』編纂過程の一端を解明した上で、遼史皇族表の再構成を達成した。〈第二章〉では、遼朝国舅帳の歴史的沿革の全体像を復元し、国舅夷離畢帳と国舅別部との関係を解明した上で、漢文史料に誤伝されている天祚帝皇后の系譜が国舅夷離畢帳に属することを確認する。ついで、国舅夷離畢帳系譜の全面的復元をもとに、遼史外戚表の再構成を達成した。

 最後に、前著『韓半島から眺めた契丹・女真』(京都大学学術出版会、2011年)の研究成果が呉英喆(Wu Yingzhe)氏によって剽窃されたことを指摘しておかねばならない。氏は最近発表した文章(『
알타이학보22111-120頁、2012年)において、筆者が前著で解明した契丹小字『外戚国舅帳耶魯宛迪魯古副使位誌碑銘』の墓主が『遼史』卷85に伝がある蕭撻凜の玄孫であること(前著36頁)及び契丹小字『可汗横帳仲父房連寧詳穏墓誌』の墓主が『遼史』卷83に伝がある耶律休哥の姪孫であること(前著84頁)をすべて自分の「研究成果」としている。実は、2010年までの呉氏の一連の剽窃行為は、すでに『韓半島から眺めた契丹・女真』に明白に指摘しているが、全く反省もなく短期間でまたもや同様の剽窃行為を堂々と続けていることは非常に心外である。こうした反学術倫理的な行為を公示するとともに、知的所有権保護のコンセンサスを呼びかけるものである。

    
 
              
  契丹大字墓誌

 2012年までに発見した契丹大字墓誌は14件あり、年代順に並べると、以下のようになる。

(1)
痕得隠太傅墓誌(遼穆宗應暦十年[960]五月二十八日)
(2)
耶律延寧墓誌(遼聖宗統和四年[986])
(3)
霞里隠(耶律万辛)大王墓誌(遼興宗重熙十年[1041])
(4)
可汗横帳孟父房涅鄰劉家奴詳穩墓誌碑銘(遼興宗重熙二十年[1051]十月二十二日)
(5)
奪里不里郎君位誌銘(遼道宗大康七年[1081]三月十五日)
(6)
故撻不衍觀音(耶律昌允)太師墓誌(遼道宗大康十年[1084]六月五日)
(7)
フリジ契丹国阿縵太師墓誌(遼道宗大安五年[1089]十二月二十五日)
(8)
蔑古乃乙辛隱袍里宰相勅葬墓誌(遼道宗大安六年[1090]三月十九日)
(9)
大中央フリジ契丹国故西北路招討訛都宛(蕭興言)太傅之妻永寧郡公主位誌銘(遼道宗大安八年[1092]三月二日)
(10)
大フリジ契丹国休堅(耶律谷欲)大王位誌(遼道宗壽昌二年[1096]十月十七日)
(11)
大中央フリジ国興隱太師妻夫人墓誌碑銘(遼道宗壽昌六年[1100]四月一日)
(12)
大フリジ国耶律撒班(耶律祺)枢密斉王位誌銘(遼天祚帝乾統八年[1108]五月某日)
(13)
大中央契丹国惕隱司仲父房習涅副使墓誌(遼天祚帝天慶四年[1114]三月二十五日)
(14)
大金国先父郎君墓誌銘(金世宗大定十六年[1176]八月十一日)


              
  契丹小字墓誌


 2012年までに発見した契丹小字墓誌は43件あり、年代順に並べると、以下のようになる。

(1)
烏隗烏古里部宸安軍節度使兀古隣(耶律迪)太師墓誌[遼興宗重熙二十年[1051]二月二十八日
(2)
大中央契丹フリジ国故廣陵郡王(耶律宗教)墓誌銘(遼興宗重熙二十二年[1053]八月十二日)
(3)
興宗皇帝哀冊(遼道宗清寧元年[1055])
(4)
高隱太師墓誌(遼道宗清寧三年[1057]二月某日)
(5)
控骨里太尉妻胡睹古娘子墓誌』(遼道宗清寧年間)
(6)
國舅楊隱宰相惕隱司蒲奴隱(圖古辞)尚書墓誌銘(遼道宗咸雍四年[1068]七月九日)
(7)
大中央フリジ契丹国故左龍虎軍上將軍正亮功臣檢校太師只兗昱(耶律玦)敞穩墓誌(遼道宗咸雍七年[1071]八月二十日)
(8)
于越尚父守太傅糺鄰(耶律仁先)王墓誌碑銘(遼道宗咸雍八年[1072]九月十九日)
(9)
仁懿皇后哀冊(遼道宗大康二年[1076])
(10)
特免郭哥駙馬次妻曷魯里夫人墓誌碑銘(遼道宗大康四年[1078]一月某日)
(11)
大中央フリジ契丹国外戚国舅宰相惕隠司回里堅審密墓誌(遼道宗大康六年[1080]八月一日)
(12)
大中央フリジ契丹国六院部蒲古只夷離菫帳鉢里本墓誌(遼道宗大康八年[1082]八月十一日)
(13)
永寧郎君墓誌銘(大安四年[1088]一月十三日)
(14)
大中央契丹国特里堅(忽突菫)審密位誌銘(大安七年[1091]九月三十日)
(15)
可汗横帳仲父房連寧詳穏墓誌(大安七年[1091]十月二日)
(16)
大中央フリジ契丹国臨海軍節度使崇祿大夫檢校太尉同中書門下平章事上柱国漆水郡開国公食邑二千食實封二百耶律撒懶相公墓誌銘(遼道宗大安八年[1092]八月七日)
(17)
大中央フリジ契丹国可汗橫帳仲父房耶律烏盧本(耶律智先)太尉墓誌銘(遼道宗大安十年[1094]十一月十五日)
(18)
外戚国舅小翁帳奪里懶太山(蕭彦弼)将軍妻永清郡主二人之墓誌(遼道宗壽昌元年[1095]六月二十六日)
(19)
大フリジ契丹国可汗橫帳惕隱司仲父房国隱寧(耶律奴)詳穩位誌銘(遼道宗壽昌五年[1099]四月二十八日
(20)
六院
古直舍利房隗也里(耶律弘用)將軍位誌(遼道宗壽昌六年[1100]四月二十四日)
(21)
撒懶室魯太師位誌碑(遼道宗壽昌六年四月某日)
(22)
大中央フリジ契丹仁聖大孝文皇帝哀冊文(遼天祚帝乾統元年[1101])
(23)
宣懿耨斡麼哀冊文(遼天祚帝乾統元年[1101])
(24)
惕隱司秦王帳空寧敵烈太保墓誌(遼天祚帝乾統元年[1101]二月二十八日)
(25)
大中央フリジ契丹国六院諧領于越帳孟父房窩篤宛(耶律兀没里)副署位誌(遼天祚帝乾統二年[1102]十一月二十五日)
(26)
惕隱司孟父房蜀國王帳耶律夷里衍太保位誌(遼天祚帝乾統二年[1102]十二月十一日)
(27)
可汗横帳季父房四字功臣洛京留守開府儀同三司兼中書令于越尚父混同郡王追封許王乙辛隱(耶律斡特剌)大王墓誌銘(遼天祚帝乾統五年[1105]二月二十一日)
(28)
惕隱司孟父房白隱(耶律思斉)太傅位誌碑銘(遼天祚帝乾統五年[1105]二月二十二日)
(29)
梁國王(蕭朮哲)位誌銘(遼天祚帝乾統七年[1107]四月十四日)
(30)
涿州刺史墓誌(遼天祚帝乾統八年[1108]十月八日)
(31)
大耶律故義和仁壽皇太叔祖哀冊(遼天祚帝乾統十年[1110]十一月八日)
(32)
大耶律故宋魏国妃墓誌銘(遼天祚帝乾統十年[1110]十一月八日)
(33)
外戚国舅帳耶魯宛迪魯古副使位誌碑銘(天慶四年[1114]十月二十九日)
(33)
大耶律初魯得迪魯菫將軍妻撻體娘子墓誌銘(遼天祚帝天慶五年[1115]四月十日)
(34)
大中央フリジ契丹国惕隱司季父房秦王帳兼中書令開國公王寧墓誌(遼道宗大康二年[1076]以後
(36)
横帳仲父房某墓誌(遼天祚帝時期)
(37)
乙辛隱少傅夫人墓誌(年代不明)
(38)
控骨里太尉妻拔里胡睹古娘子墓誌(遼道宗清寧年間)
(39)
大金皇弟都統經略郎君行記(金太宗天会十二年[1134]十一月十四日)
(40)
國舅小翁帳越國王烏里衍(蕭仲恭)墓誌(金海陵王天德二年[1150]九月十九日)
(41)
大金習撚鎮國上将軍墓誌銘(金世宗大定十一年[1171])
(42)
大金故顯武將軍上師居士蘭陵縣開國男騎都尉食邑三百拔里公墓誌(金世宗大定十五年[1175]十一月二十六日)
(43)
北京房山顧冊村墓誌(金代)



             金光平先生の契丹大小字に対する論断


 契丹文字には、女真文字と同じようにそれぞれ「大字」と「小字」と二種類の文字がある。しかしながらどれが大字でどれが小字かといった問題は、前世紀30年代に契丹文字が始めて世の中に姿を現した頃から、長期にわたって諸説紛紛としていて、是非が決めがたくなっていた。
 金光平先生は、中国の名高い女真文字・契丹文字の研究家である。1957年に『蕭孝忠墓誌』を研究したうえ、論文「錦西西孤山契丹文墓誌試釈」において、墓誌に刻されている文字は契丹大字であると認定し、中国の考古学専門誌『考古学報』に発表した。今日では、金光平先生の契丹大字に対する論断はすでに学界に公認されている正確な結論となっている。
 ここで、契丹大字研究にあたって先駆的意義をもつ論文「錦西西孤山契丹文墓誌試釈」の要点をまとめると、次の如くである。
(1)
契丹字には、大字と小字との二種類があり、大字の製造及び頒布は遼太祖神冊五年(920)にあり、隷書漢字の筆画を増減することによって製造された。小字に関しては、頒布年月が記録されておらず、ただ遼太祖のときに「回鶻使至、迭剌習其言與書、因製契丹小字」とあり、時間的には、大字製造以後にあたるはずである。現存する二種類の契丹字につき、慶陵石刻文字は契丹大字で、錦西石刻文字は契丹小字であると一般に論ぜられているが、問題がある。慶陵石刻契丹字には、独体字もあり、複合字もある。複合字は、二個ないし七個の字を複合して組み合わせるものである。ここから見れば、契丹語は多音節言語で、単語ごとに音節数が違うことが、文字に表現される際に、複合字中の字数に関連することがわかる。錦西石刻契丹字は、慶陵石刻契丹字とちょうど反対で、字形は簡単だし、整っている。しかも女真文字とよく似ている。製造の方法から見れば、漢字をそのまま借用したり、漢字の筆画を変化させたりしていることがわかる。『遼史』のいわゆる「隸書之半增損之」によって作られた契丹大字は、錦西石刻契丹字に合っているが、慶陵石刻契丹字の方は回鶻表音文字をまねているものなので、遼太祖の弟である迭剌が作った契丹小字に合っている。
(2)
女真字にも大字・小字の種別がある。大字は金太祖が完顔希尹に作らせたもので、天輔三年(1119)に頒布された。その後、金熙宗は皇統五年(1145)に女真小字を作り、女真大字とともに併用した。また『金史』完顔?伝に、完顔希尹が契丹字に倣って女直字を作ったとある。『華夷訳語』と金・明両代の石刻に現れる女真字を慶陵石刻契丹字と比べると、字体が一致しないが、錦西石刻契丹字と字体が接近しているところから、女真字は契丹字と漢字をモデルとし、筆画増減によって製造されたものであることがわかる。よって、現存している女真字は錦西石刻契丹字の模造品であることを断定できる。
(3)
山路広明『契丹文字の研究』の、表意字は大字、表音字は小字、慶陵石刻契丹字は大小字混用の文字という説は正確でない。氏は錦西石刻契丹字を見たことがないので、こういった想像プラス調和の説をなしていたのである。
(4)1937
年に発見された『故太師銘石記』は、契丹字で刻されたもので、錦西石刻契丹字と同じ類型の文字である。李文信氏の研究(『契丹小字「故太師銘石記」之研究』)おける、偽造と見なす説は、不適当である。


            
   契丹大字の性格


 金光平先生が契丹大字に対し科学的に論断してのち、半世紀あまり、契丹大字研究の進展は終始緩慢な状態にあった。これに比べ、契丹小字の研究は21世紀に入ってのち速やかに進展する局面を呈している。契丹小字墓誌の大量の単語が解読されたことに従って、多数の文法現象が解明されたが、これらはみな契丹大字研究を推進する重要な前提である。大字と小字は、文字の類型は異なるが、書写したのは同一の言語である。このため、契丹小字の釈読成果を基礎とし、契丹大字に対比する研究方法は、短時間で相当部分の契丹大字の発音と意味を釈読することを可能にする。
 烏拉熙春の最新の研究成果によれば、契丹大字墓誌には全部で1037個の契丹大字(異体字を数えない)が出現する。解読済みの契丹大字はすでに832個にのぼっている。この数値は、契丹大字の性格をあらためて認識する際に一個の斬新な論拠を提出する。現在までのところ、契丹大字の性格に対して種々の見方があるが、その共通点は「契丹大字は表意文字である」ということに他ならない。これらの見方はおそらくみな『契丹國志』巻1太祖大聖皇帝「渤海既平、乃製契丹文字三千餘言」に誤られたものである。烏拉熙春はつとに1990年代に『女真文字書』を研究した際にこうした見方に対して懐疑しはじめた。契丹大字を主要なモデルとして創製された女真大字が表意兼表音の文字体系に属し、契丹語が女真語と同じく多音節膠着型のアルタイ系統の言語に属し、この種の言語は純粹的な表意文字を用いて書写することは不可能だからである。その後金啓孮先生と烏拉熙春共同で『女真文大辞典』を編纂した際にさらに「契丹大字は表意文字である」ことへの懐疑を深めた。統計した女真大字は合計1307個で、「表意字に表音字が後続する」、「複数の表音字を組み合わせる」などの方式を通じてこれら女真大字を用いてあらゆる女真語の単語を表示することができるのである。女真大字が契丹大字の啓発を受けて創製された以上、逆推すれば、女真大字のこうした表音方式は契丹大字より継承したものであるはずである。
 契丹大字の性格は、簡単にいえば、「表意─音節文字」である。しかしそこで音節を表示する字は、一種の不完全な音節字であり、同一の音節が固定的に同一の字を使用して表示されるわけではない。同じでない場合によれば、同一の音節が往々にして同じでない文字の面貌をもつことがある。甚しくは同一の意味を表示する表意字が、同じでない字形を用いて表示されることさえある。もっともこの種の情況は相対的にいって比較的少ない。
 『遼史』によれば、契丹大字は創制から頒行まで、全部で八か月の期間を要した(太祖神冊「五年春正月乙丑、始製契丹大字」、九月「壬寅、大字成、詔頒行之。」)。東アジアの非漢語系統の民族としてはじめて文字を製作した契丹人からいえば、豊富な語尾変化をもつ多音節言語を文字によっていかに適切に表現するかということには、相当の期間の工夫を費やしたはずである。現在、契丹大字を解読した結果から見れば、凡そ表意字を使用するものは、おおむね名詞、虚詞及び語尾変化のない動詞である。語尾変化をもつ動詞と一部の形容詞は、その語根は安定不変の部分に属し、一律に同形の字を使用して表示するが、語尾の音節に使用される字は往々にして不統一で、この種の現象は契丹小字にも常に見受けられる。
 『遼史』巻89耶律庶箴傳に、
 明年、遷都林牙。
上表乞広本國姓氏曰:「我朝創業以來、法制修明;惟姓氏止分為二、耶律與蕭而已。始太祖制契丹大字、取諸部郷里之名、續作一篇、著于卷末。臣請推廣之、使諸部各立姓氏、庶男女婚媾有合典禮。」帝以舊制不可遽釐、不聽。
とある。
 耶律庶箴の表文から推測できるが、契丹大字創制の際にも金太祖が完顏希尹に命じて編纂させた『女直字書』に類似した教科書を編纂したのである。金啓孮先生と筆者の『女直字書』の抄本『女真文字書』に対する研究の結果によれば、その字書は全部で27個の門類に分かれ、その順序は(1)天文門(2)地理門(3)時令方隅門(4)人物門(5)身体門(6)鳥獸門(7)田禾門(8)車帳門(9)厚薄(10)花木門(11)果実門(12)飲食門(13)宮室門(14)器用門(15)珍寶門(16)衣服門(17)毛髮(18)書信(19)邊塞(20)一齊(21)靈聖(22)收覆(23)俊醜(24)移動(25)宮京(26)地名門(27)数目門である。その中の動詞と関係のある門類は主に(22)(24)に集中ており、これらの動詞はみな語根を表示するだけに使用される表意字で、語尾音節をもたない字の形式である。金、明両時代の女真大字では、動詞の語根を表示する意字は基本的に変化がない。『女直字書』の成書体例は契丹大字の『字書』を参照したものである可能性が非常に大きく、ここから逆推できるが、契丹大字『字書』に列せられた動詞も、必ずや語尾音節の字をもたない語根表意字であろう。ここから見受けられるが、遼穆宗の應暦十年(960)に刻された『痕得隱太傅墓誌』から金世宗大定十六年(1176)に刻された『大金国先父郞君墓誌銘』まで、動詞の語根表意字は基本的に変化がない。表意字を用いて語根の語義を表示し、表音字を用いて語尾音節を綴り合わせる。これは典型的な「表意─音節文字」の構成形式であり、女真大字は契丹大字の伝統を継承し、「表意─音節文字」の道に沿って一歩発展し、音節字は契丹大字よりさらに合理的で簡潔になっている。
 契丹大字墓誌中は契丹小字墓誌と同様に大量の漢語音訳語彙を記録し、それは地名、官名、人名、爵号を包括している。これらの単語を音訳する契丹大字は、ほとんどそれぞれの墓誌ごとに異なった綴り方の形式があり、甚しくは同一の墓誌にも同じでない綴り方の形式が出現することがある。この種の現象は同様に契丹小字墓誌にも出現する。
 契丹大字の数を統計する過程で逢着した最大の煩雑は異体字の問題である。契丹大字の異体字の多さは、予想を超えるものである。最も多いものは、一個の字に結局七種の異体があり、甚だしくは同一の墓誌にも複数の異体字が存在する。異なった墓誌に出現する異体字は、年代的の推移から字形的の推移の特徴を看取することができる。さらにいくつかの異体字は、特定の墓誌だけに出現し、この墓誌の書丹者の個人的な習慣に属するものと認定できる。現時点で統計した1037個の契丹大字には、さらになお識別できていない異体字が存在する可能性が大きい。これらの字が出現する場合が限られているため、それが異体字であることを認定するに足る証拠がないだけである。ここから推断できるが、さらに契丹大字墓誌が出土しても、より更多くの新字が出現することはなく、出現する可能性があるのは、必ずや大量の異体字だけであろう。契丹大字の数は、女真大字とそれほど違わず、全部で一千余りほどである可能性が大きい